三線
三線とは
琉球の歴史と文化に育まれた伝統楽器。
沖縄はかつて琉球と呼ばれていました。東シナ海の中心に位置していた琉球列島はその地理的特性を生かし、東アジア周辺の国々と古くから盛んに交易を行っていました。独立国家として栄えていた琉球王国に14世紀末、中国福建の閩江(ビンコウ)下流の住民である閩人(ビンジン)三十六姓によって三線の原型となる三絃(サンスェン)が持ち込まれました。15世紀になると当時の王・尚真(ショウシン)により士族の教養の一つとして奨励されるようになりました。その後琉球から大和(堺)に伝えられ、三味線として普及していったと言われています。
沖縄はかつて琉球と呼ばれていました。東シナ海の中心に位置していた琉球列島はその地理的特性を生かし、東アジア周辺の国々と古くから盛んに交易を行っていました。独立国家として栄えていた琉球王国に14世紀末、中国福建の閩江(ビンコウ)下流の住民である閩人(ビンジン)三十六姓によって三線の原型となる三絃(サンスェン)が持ち込まれました。15世紀になると当時の王・尚真(ショウシン)により士族の教養の一つとして奨励されるようになりました。その後琉球から大和(堺)に伝えられ、三味線として普及していったと言われています。
琉球の宝として今も
琉球政府時代の1955年、名器とされていた三線3挺がいち早く特別重要文化財に、1958年までにその他の名器8挺も重要文化財として指定され、1972年の本土復帰に伴い沖縄県指定有形文化財になりました。1995年にはさらに9挺が追加され、現在では20挺の三線が工芸品として指定されています。そして2012年、三線は26番目の沖縄県伝統工芸製品に指定されました。今日三線は、世界遺産に登録された組踊や琉球古典音楽、琉球歌劇や民謡、民俗芸能、ポップスなど様々な音楽シーンで用いられ、その素朴な音色は多くの人々を魅了しています。
工芸品としての魅力
三線の魅力を語る時、美術工芸品としての価値も忘れてはいけない大切な要素の一つです。
熱心な三線愛好家の中には、三線のその美しい形状に対してまるで女性を愛でるように「ちゅらかーぎー(美人)」と形容する人も少なくありません。三線を漆塗りの箱に納め「飾り三線」と称し、たとえ弾けなくても持っていることに意味があったとされている時代もありました。また、床の間に三線2挺を飾る「夫婦三線(ミートゥサンシン)」を持つ事は縁起が良いとされています。
熱心な三線愛好家の中には、三線のその美しい形状に対してまるで女性を愛でるように「ちゅらかーぎー(美人)」と形容する人も少なくありません。三線を漆塗りの箱に納め「飾り三線」と称し、たとえ弾けなくても持っていることに意味があったとされている時代もありました。また、床の間に三線2挺を飾る「夫婦三線(ミートゥサンシン)」を持つ事は縁起が良いとされています。
伝統的な7つの型
三線は棹、胴、カラクイ(糸巻き)から成り立ち、棹の形状によって型が決まります。 代表的な7つの型は、それを生み出した琉球王国時代の名工の名前がつけられています。 棹の太さや糸蔵の長さ、天や鳩胸の形などを見比べてその違いをみつけてみましょう。
南風原(フェーバル)型
最も古い型とされていて、棹は細めで小ぶりなのが特徴です。
野丸と鳩胸の区別がほとんどできません。
野丸と鳩胸の区別がほとんどできません。
知念大工(チニンデーク)型
三線主取(サンシンヌシドゥイ)(三線製作者を管轄する役人)に任命された知念の作とされています。
天と鳩胸にかすかに稜線があります。
久場春殿(クバシュンドゥン)型
三線の中では最も大型です。
下方へ近づくにつれて次第に太くなります。
胴内部の心の付け根には段が施されています。
下方へ近づくにつれて次第に太くなります。
胴内部の心の付け根には段が施されています。
久葉の骨(クバヌフニー)型
久場春殿(クバシュンドゥン)の作と言われています。
横から見るとクバ(ビロウ)の葉柄に似ていることから名付けられました。棹は最も細く、下方へ近づくにつれ太くなります。7型の中で最も小ぶりです。
横から見るとクバ(ビロウ)の葉柄に似ていることから名付けられました。棹は最も細く、下方へ近づくにつれ太くなります。7型の中で最も小ぶりです。
真壁(マカビ)型
最も普及している型で、名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作とされています。
盛嶋開鐘に代表されるように、琉球王国時代に「開鐘」(ケージョー)と呼ばれていた型はこの真壁型を指します。
盛嶋開鐘に代表されるように、琉球王国時代に「開鐘」(ケージョー)と呼ばれていた型はこの真壁型を指します。
平仲知念(ヒラナカチニン)型
知念大工の系統に属する平仲の作とされています。
天の湾曲が大きく、中央と鳩胸の稜線が特徴的です。
天の湾曲が大きく、中央と鳩胸の稜線が特徴的です。
与那城(ユナグシク)型
名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)と同時代の与那城の作と伝えられています。
棹は厚みがあり、糸蔵は長めで鳩胸も大ぶりな作りです。通称ユナーと呼ばれています。
棹は厚みがあり、糸蔵は長めで鳩胸も大ぶりな作りです。通称ユナーと呼ばれています。
開鐘とは
琉球王国時代の開鐘(ケージョー)にまつわる興味深いエピソードが残されています。
「ある時、首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)で名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作った三線を集めて弾きくらべをした。大抵の物は夜が更けるにつれ音色が悪くなっていったが、その一方で暁を告げる開静鐘(ケージョーガニ)の音が響きわたる時間になっても、ますます美しい音を奏でた三線が五挺残った。この五挺は真壁作の優秀なものとし、『五開鐘』と呼ばれるようになった」。
五開鐘の中でも筆頭とされるのが王家所有の盛嶋開鐘です。
沖縄戦で一時は失われたと思われていましたが、幸運にも戦禍を免れ、1982年には沖縄県に寄贈され、現在は沖縄県立博物館・美術館に所蔵されています。
「ある時、首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)で名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作った三線を集めて弾きくらべをした。大抵の物は夜が更けるにつれ音色が悪くなっていったが、その一方で暁を告げる開静鐘(ケージョーガニ)の音が響きわたる時間になっても、ますます美しい音を奏でた三線が五挺残った。この五挺は真壁作の優秀なものとし、『五開鐘』と呼ばれるようになった」。
五開鐘の中でも筆頭とされるのが王家所有の盛嶋開鐘です。
沖縄戦で一時は失われたと思われていましたが、幸運にも戦禍を免れ、1982年には沖縄県に寄贈され、現在は沖縄県立博物館・美術館に所蔵されています。